我が家の娘は、発達障害の一種であるADHD(主に不注意型)と自閉症スペクトラムを抱えています。忘れっぽくて不器用で、けれど人の悪口は言わない、小学校高学年の優しい女の子です。
娘が生まれたのは、妊娠8か月に入ったばかりのとき。緊急帝王切開で誕生しました。
赤ちゃんのころの娘は、他の赤ちゃんたちとは違う部分を、いくつも持っていました。今考えると、その中のいくつかは、「発達障害を持つ子ども」に特徴的なものだったと思います。
けれど私は、未熟児で生まれたせいだと思い、疑問に思いもしませんでした。
しかし、娘の発達の偏りを考えるとき、やはりこの、赤ちゃん時代の特徴的だった部分は見過ごしてはいけない部分だったのかもしれません。
そんな、娘を妊娠する前から1歳くらいまでの成長過程の中で見られた、発達障害の予兆といえるかもしれない部分を思い出し、まとめてみました。
娘の前に授かった、最初の子のこと
娘を授かる1年前、私は、初めての子を「死産」という形で亡くしました。妊娠7か月も、あともう少しで終わり、というころでした。
原因は、その時は判明せず、胎児の染色体異常によるものではないか、と告げられました。重度の胎盤機能不全が認められましたが、その原因もわかりませんでした。
担当の医師からは、

不幸な偶然だと思う…。
となぐさめられました。
小さな棺の中で、ただ、眠っているようだった「あの子」のかわいらしさを、私は、忘れたことはありません。
娘の妊娠とその経過、低出生体重児での誕生
死産から10か月後に、娘を授かる
娘を授かったときは本当にうれしく、悲しみの淵の中に、新しい光が差し込んできたような気持ちでした。それと同時に「次こそは、絶対に我が子を失いたくない」という重圧で、私はノイローゼのようになりました。
不安感が常に付きまとい、私は1日の多くの時間を、10カウントに費やして過ごしました。
※10カウント法とは、10回の胎動にかかる時間を計ることで、胎児の様子をうかがうのに役立ちます。
10カウントで、30分以内に胎動を数え終わっては、ほっと安心して掃除をする。また不安に駆られて10カウントして一安心して夕飯を作る…そんな休まらない日々でした。
再び起こった、赤ちゃんの命の危機
それでも、

あんなにも不幸な偶然は、きっと続かない。確率論的に、続くはずない。
今度こそ、きっと、生きた我が子と会える。
と、自分に言い聞かせていた、妊娠8か月の頭でした。
胎動を感じる頻度が、急激に少なくなり、赤ちゃんの動きも弱々しくなりました。妊婦検診は5日前にやってもらったばかりでしたが、私は病院に駆け込みました。
NST(胎児心拍数モニタリング)の結果、胎児心拍が急激に下がっていて、おなかが張るたびに、赤ちゃんの鼓動は止まりそうになっていました。
悪い夢を見ているような気がしました。
そのまま、隣県の設備の整ったこども病院に搬送され、緊急帝王切開になりました。
帝王切開術の2日後、ようやく娘に会うことができました。1000グラムちょっとしかない、人工呼吸器をつけた、痩せこけて小さな小さな赤ちゃんでした。
それでも、元気いっぱいに手足を動かす姿に、涙が出ました。
不育症の判明
産後、私は自分の体質の詳しい検査をうけました。
その結果、これまで2度とも妊娠がうまく継続できなかった原因は、私の自己免疫疾患の一種による「不育症」だと、判明しました。
私のせいで、わが子たちに苦しい思いをさせたのだ、という、申し訳ない気持ちばかりでした。
早産と発達障害の関係と、娘の場合
早産と発達障害の直接の因果関係は、ない
のちに娘の発達障害が診断されたとき、

一般的には、早産と発達障害は、直接的な関係があると断定はできません。
と、私は発達の担当医から説明を受けました。
早産が発達に影響を及ぼす場合はもちろんあるそうです。ですが、現在では、医学の進歩により、かなり小さく生まれても、大きな障害が残らず元気に成長する赤ちゃんの方が多いのです。
娘の出生体重と脳の発達について
娘の出生体重は、1000グラムちょっと。5日前の妊婦検診では、

推定1600グラムです。
と言われていましたが、それよりも、500グラム近くも少ないものでした。見た目も、ほかの低出生体重児の赤ちゃんたちよりも、明らかに痩せていました。
そして、私と娘をつなぐへその緒と胎盤は、うまく作られておらず、取り出してみると、胎盤は皮のように薄くボロボロだったそうです。
担当の医師の見解では、

生まれる1か月以上前、妊娠6~7か月ころから、胎盤が機能しなくなっていたと思う。1か月以上ずっと栄養が届かず、成長が悪くなっていたのではないか。
ということでした。
妊娠7か月ころは、ちょうど、胎児の脳や神経系が、急激に発達する時期です。
今考えると、娘の場合は、このころに1か月以上も成長を阻害されてしまったことが、発達に大きな影響を与えてしまったのかもしれません。
しかし、この4年後、娘の発達の偏りが明らかになった時、小児科の先生や発達外来の先生は、

未熟児で生まれたことが発達障害の原因とは、断定できません。お母さんが、自分を責める必要はありません。
と言ってくださいました。それでも私の心の中には、娘に対する申し訳ない気持ちが、ずっと尾を引きました。
低出生体重による、生まれてしばらくの経過観察
ついに手に入れた、赤ちゃんのいる日々。
我が子が生きている、ということが、こんなにも幸せなのか、とかみしめる毎日でした。
ただただ幸福で、小さな娘は可愛くて、私と夫は、娘に夢中でした。可愛いお洋服を着せてやりたい、もう少し大きくなったら一緒にお菓子を作りたい、そんな幸福な想像で、毎日が輝いていました。
そして、娘の発達に偏りがあることなど、当時は思いもしませんでした。
ですが、今から考えると、定型発達の赤ちゃんと比べて、娘の発達には普通とは違うところがいくつもありました。経過観察の様子とともに、以下にまとめてみたいと思います。
誕生後の経過は順調
母体要因の早産だったため、娘本人には、これといった目立った先天的異常は見られませんでした。
チューブによる注入での母乳摂取ができるようになると、娘はこれまでの遅れを取り戻すかのように、ぐんぐんと大きくなりました。
2か月のNICU入院を経て、出産予定日のころ、娘は無事に退院することができました。
小児科でのフォローアップ
娘は小さく産まれたため、若干ですが、未熟児網膜症と未熟児くる病の疑いがあり、1か月ごとに小児科に検診に通っていました。右足足首の、かすかな麻痺もみられました。
けれど、生後8か月(修正6か月)ころには、網膜や骨の数値も安定してきました。右足も、医師の指導のマッサージなどを続けて、足首もほぼ見た目ではわからないくらいにスムーズに動くようになってきました。
冬の時期のRSウイルスの予防接種も終わり、とくにこれ以上の経過観察は必要ない、ということで、満1歳で小児科を卒業できました。
保健師さんの頻回な訪問
小さく生まれた娘のために、地域の保健師さんが、普通の赤ちゃんより頻回に訪問して、フォローアップしてくださいました。
体重や首のすわり、母乳の飲み方、音の聞こえなど、毎回細かくチェックしていただけました。なかなか上手に飲めない娘のために、フットボール抱きなど、いろいろな飲ませ方の指導もしてもらえました。
遠く他県のこども病院に運ばれ、その後もNICUに通い詰めだったので、私はいわゆる病室ママ友もつくれませんでした。小さくか細い娘を、外に連れ出すことも、気が臆していました。
そんな私にとって、親身になって娘の発育を見守っていただけたことは、とても心強いことでした。
1歳までの、娘の発達の様子と特徴
小児科や保健師さんなど、いくつかの外部フォローアップに恵まれていた娘。
その中で、赤ちゃんだった娘が発達について指摘を受けたことは、1度もありませんでした。
見た目は少し小さいくらいで、変わったところはない赤ちゃんでした。
ですが、他の赤ちゃんと比べてみると、ときどき、違う部分が見られました。
直接母乳を飲めない
NICUにいる間、最初は母乳(搾乳したもの)をチューブで注入されていましたが、ほどなくして娘は、哺乳瓶で搾乳した母乳を飲むことができるようになりました。
ところが、直に母乳を飲むことが、なかなかうまくできませんでした。
飲み始めて10秒ほどで、疲れ切って眠ってしまうのです。10秒では、なにも飲めていません。
哺乳瓶と違い、直接母乳を飲むためには、あごの力が必要になります。これが娘にはとても疲れるようで、飲む前にくたびれて、そのまま眠ってしまっていました。
仕方なく、退院してしばらくは継続して搾乳し、哺乳瓶で飲ませていました。
飲めるようになっても、異常なほどすぐ疲れてしまう
直接飲む練習も毎日繰り返し、娘はようやく、直接母乳を飲めるようにはなりました。
しかし、飲み始めてもすぐに疲れて、飲むのをやめていました。
これは新生児ではよく聞く話です。しかし娘は、生後5か月(修正3か月)を過ぎても、2分ほどしか継続して飲めませんでした。
飲ませて10分もすると、おなかが減って起きる…また1分飲んで、くたびれて寝る…10分後に起きる…という繰り返しが、延々と続きました。
こども病院から退院するとき、消化器官が未熟な低出生体重児には、できるだけ消化のいい母乳を飲ませたほうが良い、と私は指導を受けていました。それもあって、可能な限りは授乳するようにしていました。
母乳の飲み方がようやく安定してきたのは、生後8か月(修正6か月)ころでした。
寝返りだけが、できない
2か月早く生まれた娘ですが、首の座り、おすわり、はいはい、つかまり立ちなどは、少しずつ上手にできるようになりました。
ところがなぜか、最初にできるようになるはずの「寝返り」だけが、いつまでたっても出来ませんでした。
おすわりやはいはいができるようになってからも、寝返りだけ、さっぱりできません。
たまに、寝返りをしようとしているのか、起き上がろうとしているのか…寝たまま横向きになり、うーんうーん、と30秒ほど頑張った後、そのまま、疲れて眠ってしまっていました。
ようやく寝返りができるようになったのは、生後11か月の時でした。
からだの発達が順番通りではない、ということに重要な意味がある。
そう、のちに私は知ることになりました。
娘からのコミュニケーションが薄い、一人でいても平気
娘は、修正2か月のころには、名前を呼ぶとにっこり笑うようになりました。あやすと、にこにことよく笑う赤ちゃんでした。その頃の写真には、笑顔がいっぱいです。
顔をのぞきこんであやせば、本当によく笑ったのです。
しかし、今思うと、娘の方から発する「周囲へのコミュニケーション」は、あまりありませんでした。
生後半年を過ぎたころから、娘は、こちらが話しかけなくても、1人で平気な様子でした。私がそばにいなくても、あまり泣かない赤ちゃんでした。
自分の周りにある、おもちゃや、きれいな花や、扇風機の飾りリボンがひらひら動く様子やらを、温和な表情のまま、ずっと眺めている赤ちゃんでした。
空腹や痛み以外ではほとんど泣かず、後追いもまったくなし。私が用事があって誰かに預けるときにも、全く困りませんでした。
おんぶが嫌い、反り返っていやがる
娘は、おんぶされるのが嫌いな赤ちゃんでした。おんぶしようとしても、反り返って泣くのです。あまりに危なくて、おんぶはとてもできませんでした。
家事などの間、一人にしておけないときには、抱っこひもで抱っこするしかありませんでした。料理中などは、抱っこの状態で包丁を扱ったりしなくてはならず、我ながらいつもひやひやしていました。
見えていたけれど気がつかなかった、特徴的な発達
幼少期の娘は、授乳がやたら頻回なこととおんぶを嫌がることを除けば、本当に手がかからず、穏やかな子でした。
この、体力がなく、できることに少し偏りがあり、なぜか異常なほど手がかからない、という状態そのものが、発達凹凸の、最初の兆候だったと思います。
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